三宅島は,20年に一度は,噴火するといわれています。
近くは,1962(昭和37)年,1983(昭和58年),そして今回の2000年。
私は,その58年の噴火の後に小学校の教員として三宅島の坪田という集落に赴任し,3年間を過ごしました。
子どもたちは,本当に伸びやかに生きておりました。
教室から外に出ては,山に行き,海に行き,休みは,一日泳いでいたり,釣りをしたり…。
そこに私は付き合っておりました。
24時間をまるごと,子どもたちと,島の人と生活してきました。私は私で,お祭りに参加したり,新年の獅子舞で村を廻ったり,村の若い人とコンサートを開いたり,自分がこんなことやってみようかなあということが学校の中でも,村中でも,すぐに形になりました。
海でおぼれたり,山道に迷ったり,それこそ命の危険も体験しました。
そこで,いっぱい怒られました。
島の人にとって,隣の子も家の子も私もありませんでした。
生きている人間と人間がいる,そんな実感でした。
赴任2年後に伊豆大島が噴火して,大島の子が東京23区内の学校似一時避難したことがあります。
そこで,島の子の学力が問題になったことがありました。
区内の子に比べて遅れているというのです。
三宅島でも校長先生を通して,学力アップをと言って来ました。
学力とは何でしょうか?
生きる知恵があり,人の気持ちを感じる心があるのにそれを遅れているとは…。
それと並行して,復興後の三宅島に米軍基地建設問題起こり,島民が、反対派と賛成派に分かれました。
天然記念物のアカコッコをはじめとする野鳥の島に,基地が出来るのです。
島の人は,本当によく学びました,騒音のこと,飛行機のこと,国のこと,アメリカのこと,…。
そして,政府側の基地建設についての説明会を拒否しました。
結局、島民の圧倒的な反対のもと,その話はなくなりました。
日々の中でふと三宅島を思うことがあります。時代に遅れろとか,のんびりすごせというのではないのですが,速度を緩めて,ゆっくりとお互いを感じあう場を時をつくらなければと切実に思います。
三宅島の人が,自分が思いを刻んだ土地に帰島をしていく姿を見て,私も,久しぶりに,三宅に帰ってみたい,そんな心境の今です。
|